■「りん」と名付けられた2つの理由

14090801_2小林: 長すぎて誰も覚えられないと言われる「インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢」ですが、頭文字の「ISAK(アイザック)」だけ覚えていただければ幸いです(笑)。

いつもは生い立ちについて高校生のころから話をしているんですが、岩瀬君のお話を踏襲して、その前に遡ってお話をしたいと思います。今日は親御さんの方も多いと思います。なぜこんなふうに育ってしまったのかということを、私も振り返ってみたいと思います。

私の場合、旧姓は渡辺で「りん」というのは平仮名です。39歳になるんですが、39年前に平仮名でりんという名前の人なんて本当にいなかったんですね。それで小学校1年生の頃にこの名前のせいでいじめられました。私はもともと声が低いので「そんな声をしてりんなんておかしい」とか(笑)。

「私にそんなことを言われても困る」と思いながらいじめられていたんですが、小学校1年生の国語の授業で、「自分の名前の由来を親に聞いて作文にしましょう」という宿題があったんです。名前のせいでいじめられていたものですから、親に「なんでこんな名前をつけたの」と聞いたら、2つの理由がありました。ひとつは「日本語でも英語でもスペイン語でも中国語でも、どんな国の言葉でも簡単に覚えやすい名前にしたかった」ということでした。

もうひとつは「あえて平仮名にしたかった。なぜなら君の人生は、自分たち親のためにあるのではなくて、君自身のためにある。『倫理』の『りん』なのか、『凜々』の『りん』なのか、あるいは『チリン』という『りん』なのか、それを決めるのは自分自身なんだ」と言われたんですね。その他にも、あと5つくらい理由がありましたが、残りは忘れてしまってその2つだけを覚えているんです(笑)。

その理由を聞いて、「よくわからないけど、私は自由に生きていいんだな、日本だけじゃなくて世界中を見て好きなように生きていけばいいんだな」という思いを持ったことを覚えています。私の場合は人と違うことは良いことだというふうに小さい頃から親から教わったのかな、と思います。

それから、小学校から高校1年までは、ずっと公立の学校でした。うちは両親ともに市役所の職員という普通の家庭でしたので、高校1年生まで普通に地元の学校に行っていたんですが、高校1年のころ、「人と違うふうに生きたい」という気持ちが爆発しました。

今でもよく覚えているんですが、その年の8月に三者面談があって、そのときに私が最も苦手な物理の先生が担任でした。その先生に開口一番「あなたは本当に勉強を頑張ったほうがいい」と言われたんです。

私はそのときは学級委員もやっていましたし、バスケ部もやっていて、朝5時に起きて朝でも昼も夜もバスケばっかりやっていました。勉強でも文系科目を頑張ってやっていたんですが、そういう部分を一切見ずに、「君は物理をやったほうがいい」と言われて、疑問を持ち、学校を辞めることにしました(笑)。

この言い方だと相当飛躍がありますが、最終的に辞めてしまったんですね。そのときにたまたま経団連から奨学金をいただいて、カナダの全寮制の高校に行くというチャンスをいただいたんです。

それは学校にA4の藁半紙で案内が1枚だけペロッと貼ってあったんです。高校1年の12月くらいに辞めようと思ったときには、もうAFSとかYFUとか大手の1年間の交換留学が全部締め切られていたんですね。私はもう、学校を辞めて2年間行くユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)の選択肢しかなかったんです。留学したことでそれまでとは全然違う人生が始まるんですが、この辺りはあとでまたご質問があれば詳しくお話をしたいと思います。

■留学することで知った世界

小林:留学生活のなかでメキシコ人の親友みたいな人ができました。私も全然英語ができないままカナダに行ってしまったので、英語ができない者同士で仲良くなる傾向というのはあったと思います(笑)。メキシコ人の女の子と一緒に「いやー、英語ができないと辛いよね」という日々を過ごしながら仲良くなったんです。

高校2年、3年の夏休みにメキシコにある彼女の実家を訪ねたんですが、そのとき本当の貧困を目の当たりにしました。ビックリしたのは、彼女の家の兄弟が誰も学校に行っていなかったんですよね。彼女だけが奨学金をもらって学校に行っていたんです。彼女の実家では7人家族で住んでいて、雨水をタンクに貯めて洗濯したりしていて、本当にビックリしたんです。そこで「日本人に生まれたということは何て幸せなことだったんだろう」と初めて実感したんです。ここから私のいろいろなジャーニーが始まったのかな、と思います。

とはいえ、途中で外資系に行ったり、間にいろいろなことをしているんですが、先ほどお話があった谷家さんとの出会いがあったのが2007年のことです。当時、私はユニセフ(国際連合児童基金)に勤めていました。

「ストリートチルドレン」という言葉をお聞きになったことがあると思います。フィリピンという9,000万人くらいの人口の国で、15万人とも20万人とも言われる子供たちが、路上で生まれて路上で生活しています。フィリピンでは日本と同じで初等教育は無料なんですが、それでも彼らは学校に行けないんです。なぜだと思いますか?

それは児童労働の犠牲になるからなんですね。学校に行っていると授業料は無料なんですが、それだと1円の稼ぎにもならないから、学校に行かずに働いているんです。「スモーキーマウンテン」という言葉がありますが、大きなゴミの山に行って朝から晩までゴミを集める。その中から、たとえば瓶の蓋は金属なのでそれを集めるとリサイクルができるんですね。それを5kg、10kgと集めてやっと5円、10円稼げるという世界なんです。そのために、一日中ゴミ山に働きに行かされる子供たちがフィリピンには何万人といます。

そういう子供たちのために、週末や夜中にバンを出して、国連で識字教育という形で支援させていただくというのが私の仕事でした。私が17歳でメキシコに行ったときの衝撃から考えると、これはドリームジョブだったと思います。私は、こういう貧困層の人たちにこそ、教育を与えたいと思っていたんですね。

マニラを歩いていると、本当に貧富の差が激しくて、貧困層の子供たちがいる一方で、政治家や財閥の方はものすごい家に住んでいるんです。つまり、一度貧困に陥るとそこから出てこられない社会構造になっているんです。