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「戦争に負けた後、経産省は『日本は繊維業で進むべき』という方針を立てていましたが、それに対して永野さんは『いや、そうじゃない。日本は重工業が発展しないから負けた』と主張して、鉄鋼業の確立を目指しました。でも、焼け野原の中、人材もいないしお金もない。ノウハウもない。頭の良い人だったらそこで諦めるところですが、永野さんはそうしなかった。吉田茂に願い出て、世界銀行の総裁を日本に呼んでもらい、骨董品好きの頭取のために日本中から骨董品を集めてプレゼントし、大喜びしてもらったところで、資金を調達したんですよ。そうしてできたのが、新日鉄の元になる鉄鋼会社。こんなすごい経営者がかつて日本にいたことに驚きました」

常識にはとらわれないクレージーな発想を卓越した行動力で実現させた昭和の偉人。その姿は、29歳でアメリカに渡り、シリコンバレーでベンチャーの創業支援に携わった徳重さんが知り合った起業家の姿とも重なりました。

頭脳明晰であるがゆえに、何ができ、何ができないのかを冷静に見極め、できることだけやろうとする日本人とは違い、徳重さんがスタンフォードで出会った人々は、できるかできないかは関係ない、必要だからそれをやるんだという強い信念に突き動かされていました。

「まさにクレージーですよ。ベンチャーキャピタルも、投資する基準の最低レベルが、その製品やサービスが世の中を変えるかどうかということにある。永野重雄さんもそうですよね。できるかどうかじゃなくて、必要だからという文脈でビジネスをスタートした。目線が実に高いんです」

■クレージーな自分を作ったソニー盛田氏のエピソード

その質素な暮らしぶりから「メザシの土光」と呼ばれ、石川島重工業、石川島播磨重工業 の社長、東芝の社長・会長、経団連会長を歴任し、「ミスター合理化」として行政改革を推進した土光敏夫さんも徳重さんに大きな影響を与えた一人です。

土光さんが活躍したのはいまから40年以上も前。にも関わらず、彼が遺した書籍はいっこうに色あせていません。現代の企業経営にも通用するエッセンスが盛り込まれています。

「問題は、能力の欠如にあるのではなく、執念の欠如にあるとか、経営はスピードこそ命だとか、アクションをいかに早く取れるかが成功する経営者の条件だとか、東芝の会長までつとめた方がベンチャー経営者のようなことを本の中で語っている。これが書かれたのは44年も前なんですが、とにかくバイタリティが並じゃない。本当に凄いと思います」

そして、もう一人。徳重さんが、尊敬してやまないという企業人が、東京通信工業、のちのソニーの創業者の一人である盛田昭夫さんです。戦後に訪米し、摩天楼が広がる光景を見てショックを受け、次に出向いたドイツでは日本と同じ敗戦国ながら復旧が進んでいる光景を見て再び衝撃を受け、その後に足を運んだオランダで一筋の光明を見出した盛田さんのエピソードを徳重さんはこう紹介します。

「小さな農業国で資源もない。そのオランダから世界中に進出しているフィリップスというメーカーが生まれている。盛田さんはこれなら日本の自分たちにもできる、よし世界に出ていこうと、社名をソニーにしたといいます。これには感動しました。格好いいじゃないですか。自分がクレージーなのは、こうした話が自分の中に刻まれているからじゃないかな」
(後編につづく)

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<プロフィール>
徳重徹(とくしげ・とおる)
1970年生まれ。山口県出身。九州大学工学部卒業後、住友海上火災保険株式会社(当時)に入社。商品企画・経営企画等に従事し、5年半間勤務した後、退社。自費留学でアメリカのThunderbird経営大学院にてMBAを取得。その後、シリコンバレーに渡って、ベンチャー企業育成に携わる。帰国後、2010年4月にテラモーターズを設立。当初から海外市場を見据えて事業を展開し、国内の電動バイク、電動シニアカー市場ではトップシェアを獲得。ベトナム、フィリピンにも事務所を構え、海外の市場開拓を進めている。

<クレジット>
文/三田村蕗子
撮影/鈴木慎平