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数々の名コピーを手掛けられたコピーライターの小野田隆雄さんをお招きして、ライフネット生命の代表取締役会長兼CEO・出口治明が「働き方」をテーマに対談しました。二人のキャリアや仕事に対する考え方、働き方を模索する若い人たちへのメッセージを紹介します。

■文章を書くことが好きだった

出口:僕は、小野田さんが手がけた資生堂のコピー「ナツコの夏」には鮮烈な記憶があります。短い言葉でも寸鉄人を刺すというか、大変な影響力があるんだなと思いましたが、そもそも小野田さんがコピーライターを目指すきっかけは何だったのでしょうか?

小野田:もともと絵を描くのが好きだったんですが、高校の先生から「遠近法がなってない」と酷評されて諦めました(笑)。もう一つ、好きだったのが文章を書くこと。一番の近道だと思って、エディターになろうといろいろな出版社や通信社を受けたんですが、全部落ちてしまった。どうしようかというときに、目に入った資生堂の宣伝文案制作者の募集に応募して、補欠で入社したのが始まりですね。目的を持って意識して積み上げたのではなく、瓢箪から駒です。

出口:僕も似たところがあります。僕の場合、絵はまるっきり下手なんですが、文章を書くのは大好きで、小説を書いて投稿したことが何度もあるんですよ。でも、箸にも棒にもかからない。先生に読んでもらっても「面白くない」と言われて傷つきました(笑)。日本生命に入ったのは司法試験のすべり止めです。大学時代に、大阪の友人の家に長髪Gパンの格好で遊びに行ったら、駅の上に日本生命があったんですよ。当時は売り手市場で面接に行けば合格をくれる時代でしてね。友人が「ここも採用しているぞ」と言うので、その格好のまま会社に行って「司法試験の滑り止めに採ってくれませんか」と申し込んだら、「いいですよ」となった(笑)。結局、司法試験に落ちて日生に入ったわけです。

■迷い続けた20代、試行錯誤の30代

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小野田:実は、僕は資生堂に入った後も、コピーライターとしてやっていく決心がずっとつかないままでした。

出口:というのは?

小野田:僕の実家は寺なんですが、ずっと家業から逃げることばかり考えていたんですよ。かといって跡継ぎは僕しかいないので、ふんぎりがつかない。夏休みにお坊さんの真似事をしたり、頭をいきなり坊主にしたりと、30才ぐらいまでは迷い続けていました。広告の仕事で一気にがんばれたのは、もう後は継がないというコンセンサスが取れてから。それまでは、しょっちゅう実家に戻っていたし、劣等社員でした(笑)。ただ、言葉を作ることはけっこうやれていたと思います。でも、広告の言葉はわかりやすく書け、個性を出すなと言われていたことに次第に疑問を持つようになったんです。

出口:個性を出してはいけないんですね?

小野田:ええ。僕は、中学の頃に、先生から「これだけ書ける人はいま日本に1万人しかいない」と作文を褒められたことがあったんですが、広告の仕事ではそうした自分の個性を全部置いて、文章を書いていました。

出口:栴檀は双葉より芳し、ですね。

小野田:ありがとうございます。でも、最大多数の最大幸福のような広告を目指すと、肝心の文章としての魅力がどんどんなくなってしまうんですよ。待てよと思って個性を出すようにしたら、今度はOKがなかなか出なくなった(笑)。ただコピーライターとしてはそこから伸びてきたと思います。

出口:僕は、何でもひと通りできるけど、際立ったものが何もないと先生に言われてきました。

小野田:何でもできて、生徒会長に選ばれたりする人が学校に一人はいますよね。僕は成績は良かったけれど、算数や数学はいつも45点ぐらい。性格は無愛想だし、クラスの委員になったことは一度もない。偏ってます。

出口:確かに、僕は生徒会長をやってました(笑)。でもこれというものがない。小野田さんのお話を聞くと本当に羨ましいです。

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