■放し飼いのサラリーマン生活

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出口:僕は最初に京都支社に配属になって、3年目に大阪本店の企画部に行きましたが、上司に非常に恵まれまして、その上司に「社長になったつもりで仕事をやれ」と言われたんですよ。そのうち、運用に関しては情報が集中している東京に本部機構を置いた方がいいと提案したら、「言い出しっぺのお前が行け」と言われて(笑)、30才で東京に行きました。興銀や野村證券、日銀に行ったら、そこが情報の宝庫だとわかったので、今度は「こうしたところに誰かを出向させたほうがいい」と言ったら、やはり「お前が行け」と(笑)。

それで興銀に行ったら、もう目から鱗が落ちる思いでしたね。経済の仕組みがくっきりと見えるようになったんです。結局、生保業界のMOF担(財務省との折衝を任務とする銀行・証券会社などの担当者)のような役回りを13年間つとめて、金融制度改革の中で保険業界の50年ぶりの改正の波に乗った形です。だから、会社ではずっと放し飼い。43才でロンドンに行くまで、経験したのは京都の支社と企画部と東京の運用企画部だけです。

上司にも「出口はコントロールできないけど獲物を採ってきてパフォーマンスをあげるから、放し飼いにするのが一番だ」と言われてました(笑)。いま考えても、恵まれたサラリーマン生活でしたね。MOF担の仕事で前日の午前3時まで飲んで、翌朝10時に会社に行くと、部下が「大蔵省に直行」とボードに書いてくれてましたから。

小野田:僕は欠勤が多かったんですが、同僚がタイムカードを代わりに押してくれていた。だから、彼が風邪で何日か休むと、僕のタイムカードはずっと真っ白。あっちに行ったりこっちに行ったりしたことにして、ごまかしましたが(笑)。

出口:当時はおおらかでしたよね。高度経済成長期で、金持ちけんかせずというところがありました。

小野田:広告の世界もそうです。景気が良いときには世の中や人間を考える広告が許されるし、ヒットする。でも、不景気になると、ハッピーで明るく笑いがある広告ばかりが求められます。

出口:あの頃は景気が良かったので、日生もどんどん伸びて、規制が緩和される度にリース会社や投資会社をどんどん作った。ラッキーな時代だったと思います。

■天職とは何か

出口:ただ、現在の仕事が天職だったかどうかはわかりません。勢いで日生に入って、たまたま面白いポストで放し飼いにされてやってきましたが、僕自身はこの仕事が本当に向いていたかどうかは自信がない。でも、人間の人生ってそんなものじゃないですか。僕は歴史おたくですが、歴史をみてもほとんどの人はやりたいことをやらずに死んでいきます。それが普通の人生。よく、好きなことをやるべきか、得意なことを選ぶべきかと聞かれますが、得意なことを選んだ方が儲かるかもしれないですね(笑)。

小野田:僕は、原稿用紙の升目に文字を埋めて飯を食えるようになりたいと思って、その通りになっているので、ある意味、天職だと言えるのかな。だから、僕の意見はあまり参考にならないかもしれませんが、文章を書いて生きていくにしても、詩人はいやだと思いました(笑)。詩人で生活できている人なんてほとんどいません。詩で生きるというのはそれほど覚悟がいるんです。

出口:音楽家も同じですね。演奏だけで食べられる人はごくわずか。ほとんどの人が音楽教室など他の仕事を兼ねています。真の芸術家が生まれるのは景気が良くて、パトロンがたくさんいるとき。社会が普通、もしくはしんどいときには芸術家は生きていけない。

小野田:僕も文章で自己表現したいと思ってやってきましたが、広告は商品を表現する仕事。本当に好きなものだけを書いていたら売れなかったと思います(笑)。

出口:どんなに大好きでも得意じゃないことを選ぶと、パフォーマンスが出ないから楽しくなくなりますよね。得意なことを考えながら、勢いで進んだ方が飯を食える確率は高い。たまたまご縁があったところに入って、面白かったらそのまま行けばいいし、そこで食えないんだったらチェンジすればいいんじゃないかな。

小野田:そう、勢いは大事ですね。僕も、最初は瓢箪から駒ですから(笑)。

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<プロフィール>
小野田隆雄(おのだ・たかお)
1942年栃木県生まれ。1966年東京都立大学人文学部卒業後、資生堂宣伝部入社。1983年にコピーライター事務所UP設立。エフクリエイション株式会社コピーライター&クリエイティブディレクター。TCCクラブ賞、TCC特別賞、朝日広告賞、読売新聞 読者が選ぶ広告賞、ACC賞、ACC話題賞、電通賞、中吊り広告大賞など受賞多数。代表作に、「春なのにコスモスみたい」「ナツコの夏」(資生堂)「恋は、遠い日の花火ではない」(サントリー)など。

<クレジット>
文/三田村蕗子
撮影/村上悦子