牛肉団子と卵のタジン鍋。辛くはありませんが、スパイシーで美味しかったです。甘〜いアラブのお茶も入れてくれました。

牛肉団子と卵のタジン鍋。辛くはありませんが、スパイシーで美味しかったです。甘〜いアラブのお茶も入れてくれました。

今回は、ロンドンからパリまで友人に会いにいった時の話を書きたいと思います。(バックナンバー 第1話第2話第3話

ぼくはフランスに留学していたことがあるのですが、その時のフランス人の大親友が「Come to see me!(なぜかフランス語ではなく英語で……)」と言うので、週末を使って、一路、ロンドンからパリへ会いに行ってきました。

ちなみに、ロンドン〜パリ間は「Eurostar」という新幹線のような速い電車がドーバー海峡をくぐって両都市間を結んでおり、ロンドン市内のセントパンクラス駅からパリ市内の北駅(パリでもあまり治安が良くないと言われる辺りですが……)まで2時間半ほどで行くことができます。

もちろん飛行機でも行けるのですが、ロンドンの職場の同僚に聞くと「飛行機は、ロンドンの郊外まで行って、少なくとも1時間前に到着して、セキュリティーチェックもいろいろ面倒くさいよ。乗ってる時間は長いかもしれないけど、都心から都心に行くユーロスターの方が、トータルでは早いからオススメ」と言われたので、今回はユーロスターを試してみました。事実、駅までのアクセスがいいし、しかも手荷物の制限も飛行機ほど厳しくないように感じました(例えば、持ち込み手荷物の重量制限、液体の容量制限など)。

さて、今回はイギリスの話ではないのですが、ぼくの異文化体験の原点である、フランス留学時代の親友であるモハメッドについて書いてみたいと思います。

モハメッドは、名前から想像できるようにイスラム教徒です。しかも、敬虔なイスラム教徒です。両親はモロッコ人ですが、彼はフランスで生まれフランス国籍を持っています。

※フランスでは、“敬虔”ではないイスラム教徒(のはずの人たち)にも、何人も会いました。酒を飲んだり、豚肉のソーセージを食べたり、一緒にクラブに行ったり、これはこれで一般的な「イスラム教徒(お酒飲まない、豚肉食べない、など)」の像を壊される貴重な経験でしたが……

奇しくも、ぼくが彼を訪ねた時期は、ラマダン(断食)の月でした(イスラム教は太陰暦を使い、ぼくらが日常で使うグレゴリオ暦と違うので、毎年『ラマダン月』は少しずつ季節がずれていきます)。ラマダン中は、日が昇っているうちは、食べ物はもちろん、水すら飲んではいけません。日中の栄養不足を補うため、日が昇る前の朝3時に起床し軽食をとり、日が完全に沈む夜10時(ヨーロッパの春・夏の日は長いです)に夕食が始まります。

そんな大変な時ですが、彼らはぼくだけのために、朝、地元のパン屋さんに行ってクロワッサンやフランスパンを買ってきてくれます。自分たちは食べないのに、タジン鍋を作ってくれます。自分たちは飲まないのに、「朝はコーヒーと紅茶、どっちがいい? あ、インドネシアのフレーバーティーもあるよ」と気を遣ってくれるのです。さすがに申し訳なくって、「なんか、ごめんね……ラマダン中なのに……」と言ってみても、「いいんだよ、慣れてるから」と優しい笑顔で答えてくれます。なんていい奴なんだろう、とやっぱり感激するのですが、彼らにとっては、きっとイスラム教の教えをただ実践しているだけなのです。

こんな体験をしなければ、イスラム原理主義者たちの過激なテロ行為ばかりが目立つ日本の報道で、「イスラム教=危険な宗教」という感覚を持ってしまうのは想像に難くありません。他人には優しくする、公共の場で秩序を保つ、乱暴なことはしない、客人は丁重にもてなす、異教徒ならば彼らの意見も尊重し過干渉しない。どれもクルアーン(コーラン)の教えだそうです。

これらの教えを実践し、静かに、平和に暮らしている大多数のイスラム教徒なんて、ニュースバリューがないのでしょう。このような認識の差を否応なく意識させられ、そしてそれを受容するまでのプロセスが、ぼくの理解する「異文化体験」です。

ただ、異文化体験って、外国でしか体験できないもの、ではないのと思うのです。
ぼくが(中学生の頃から!)好きなアーティスト、山崎まさよしさんの曲に「セロリ」という曲があります。歌詞は「育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない」で始まり、環境が違うので「セロリが好きだったりする」こともあるよね、と続きます。日本人だから、ある程度いろいろな前提や文脈を共有してはいるのですが、それでも「育ってきた環境」、「学んできた環境」や「働いてきた環境」が違うので、同じ日本人が日本語をしゃべっているはずなのに、いつの間にか考えていることがずれていたりすることはままあります。お雑煮の中身が違うなんて異文化体験の典型的な例ですし、会社によっては専門用語が異なる定義で使われることもあるようです。

もっと言えば、「同じ日本人だから」「日本語が母国語だから」という理由だけで、日本人同士の方が、お互いの差を認識せず、ついつい「気兼ねなく」自分の常識を押し付け合っているような気すらします。ぼくは、時々日本人同士でも、英語でしゃべった方がコミュニケーションの齟齬は減るのではないか、と考えたりします(冗談ではなく!)。日本人同士がお互い慣れない英語でしゃべった方が、ちゃんと意思疎通できているか不安になり、日本語でしゃべる時よりも、意味の定義や確認をちゃんと行うようになるのではないか、と思うからです。

異文化理解という文脈から、「ぼくたちは、日本人同士ですら、もっとお互いの小さな違いや差に敏感になった方がいいのではないか」と考えたのですが、みなさんはどう思いますか?

モハメッドの家にあったフランス語対訳つきのクルアーン。「Hey, Yasushi, “Kono Bakayaro”!」と日本語でふざけるのが好きな彼が、朝、静かにクルアーンを読んでいるのを目にしました。敬虔なイスラム教徒の彼は、やはりイスラム教が日常の一部なのです。

モハメッドの家にあったフランス語対訳つきのクルアーン。「Hey, Yasushi, “Kono Bakayaro”!」と日本語でふざけるのが好きな彼が、朝、静かにクルアーンを読んでいるのを目にしました。敬虔なイスラム教徒の彼は、やはりイスラム教が日常の一部なのです。