土屋敏男さん(LIFE VIDEO株式会社代表)

土屋敏男さん(LIFE VIDEO株式会社代表)

2012年に日本テレビが新たに設立したLIFE VIDEO株式会社で代表を務める土屋敏男さんは、大人気バラエティ『電波少年』シリーズなどを手がけてきたテレビプロデューサーです。どうやって数々のヒット番組を生み出してきたのか、土屋さんのテレビ制作にかける思いを、テレビ番組の歴史を紐解きつつ、ライフネット生命の社内勉強会で語ってくれました。

■そもそも、テレビとは何か

テレビ番組を作るには、一体テレビとはどういうものであるのかを知らなければいけません。テレビの歴史を紐解いていくと、とある中継番組にその答えがあると教えてくれました。

「皇太子さま・美智子さまの御成婚パレードの時を、『テレビがテレビであることを発見した日』と僕は定義しているんです。当時、NHK・日本テレビ・TBSの3局が、馬車が皇居を出てから赤坂御所まで行くパレードを中継することになった。当初は3局とも、ビルの上の方にカメラを据えて、なるべくその馬車が長く映るようにと考えていた。ところが、前日になって突然、日本テレビのディレクターが心を変えて、カメラを地上に下ろしたらしいんです。

ディレクターがどうしたかというと、馬車がカメラの設置場所にやってくるまでは、空の道を映した状態で、アナウンサーにこう絶叫させたらしいです。『間もなく来ます!間もなく来ます!』と。それで、美智子さまが来た時に、一番アップで映せるのが、日本テレビのカメラなんです」

NHKとTBSは、パレード全体を高いところから引きで撮影しています。確かに馬車が映っている時間は長くなりますが、肝心のお二人の様子は遠くからしか見ることができません。一方、日本テレビはアナウンサーの煽りによって、視聴者の期待を十分に高めた後に、美智子さまのアップが映ります。どちらが視聴者の心を掴んだか、答えは明白です。

「結果は日本テレビの圧勝だったらしいです。そして、その時から、テレビはずっと変わらない。テレビというのは『これから起こるであろう何か』を映し出す箱なんです。映画ともラジオとも違う、テレビの特性というのが、この日に発見されたということです」

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その後、テレビが一般家庭に広く普及するようになり、プロレスやアメリカの輸入ドラマがメインだった番組ラインナップに変化が現れます。そしてテレビバラエティも、演芸や軽演劇だけでなく、現在につながるような番組が制作されていくようになりました。こうしたバラエティの変遷におけるキーワードは『ドキュメント化』とのこと。

「きっかけは、欽ちゃん(萩本欣一さん)。実はこの人がテレビ番組のドキュメント化の始まりだと思うんですね。街ゆく人に番組名を突然言わせるっていう事をやるんだけれど、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』とタイトルを言った後に、『…で、これでいいの?』とか、つい何か言っちゃうんです。それが面白い。ここに、テレビのドキュメント化の始まりがあって、今につながっているんです」

その後、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『オレたちひょうきん族』、そして土屋さん自身がプロデューサーを務めた『進め!電波少年』と続くヒット番組も、ドキュメント化の流れに乗って作られてきたとのこと。また、そうしたロケバラエティが台頭する中で、ロケに出ないという真逆のことをやって成功している『アメトーーク』も、実はスタジオの中のトークドキュメントであると言います。

「テレビバラエティの歴史を振り返ってみると、『これから起こるであろう何かを映すもの』っていうことが始まったのが欽ちゃんからで、それ以降、今までずっと続いている。よりドキュメント化していく、よりリアル化していく、というのが、この歴史の中にあるわけです」

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