■失敗から学んだこと

土屋さんは22歳で日本テレビに入社し、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を担当してきました。しかし、31歳の頃に「他社で人気の番組を真似て企画を考えろ」と言われて作った番組が立て続けに失敗。一時的に現場を離れたという経緯もあったそうです。

「35歳の時に初めて、『何でもいいから明日までに企画書持ってこい』と言われて、考えたのが『電波少年』。これまで、『○○みたいな企画』で作った番組がハズれてきたから、テレビ40数年の歴史にない、今までに見たことのないテレビをやろう思いました。その思いだけでやってみたら、予想外に大当たり。その後担当した『ウリナリ』、『雷波少年』と合わせて、1週間で合計100%の視聴率を獲得するまでになりました」

自分たちが昔見ていた番組の話に、みんな興味津々。

自分たちが昔見ていた番組の話に、みんな興味津々。

「『電波少年』をやっている時に、ある仮説を立てたんです。『スターがテレビを作るんじゃなくて、テレビがスターを作るんじゃないか』って。これまでのバラエティ番組は、人気のあるタレントをキャスティングして、その人たちに何かやってもらうっていう考えが主流でした。でも、僕は無名の人間を使っても、企画さえ面白ければ面白くなるんじゃないかと思っていた。そうして生まれたのが当時まったく無名だった猿岩石が、香港からローマまでヒッチハイクで行くという企画」

今や伝説にもなっているヒッチハイク企画誕生のきっかけが、「スターがテレビを作る」というそれまでのテレビの常識に対するアンチテーゼだったと言います。

「世の中の風潮に対して、『いや、違うよ』と逆らってみて、自分だけが見つけた何かをやっていこう、と考えていました。そうすると、世間の人は『裏切られた』と思う。裏切られると、次に何が起こるか予想ができないから、また見なくちゃと思ってくれる。『何かが起こるであろう』ということが期待されるということが、やはりテレビの本質だったっていうことに、気がつくことにもなりました」

信念を曲げずにテレビ制作に携わり、番組をヒットさせてきた土屋さん。そんな中で新たに個人のドキュメンタリーを作成したいという思いが芽生えます。そして日本テレビ社内で新しい事業を企画し、LIFE VIDEO株式会社を設立するに至りました。

(後編につづく)

<プロフィール>
土屋敏男(つちや・としお)
テレビプロデューサー。日本テレビ放送網編成局専門局長。1979年に日本テレビに入社し、ワイドショーの現場を経てバラエティ番組の制作にたずさわる。『電波少年シリーズ』『ウリナリ』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』など、伝説的なヒット番組を演出・プロデュース。2012年に、日本テレビと日テレアックスオンが設立した新会社のLIFE VIDEO代表取締役社長に就任。

<クレジット>
文/志村優衣
撮影/鈴木慎平