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「例えば、日本語には単数形・複数形の違いのない言葉がたくさんあります。こんな言語は世界的に見ても珍しい。具体的に説明しましょう。

英語では本をBooksと複数形で表せますが、日本語では『本たち』とは言わない。もちろん、日本語でも生活に密着した言葉は複数形で言い表せます(子どもたち、木々など)。しかし、日々暮らしていくうえで重要度が低いもの(生命の維持に関係しないもの)については、単数と複数を区別しない言葉が圧倒的に多いのです」

言語において単数(個人)と複数(集団)の区別をどのぐらい意識するのかは、その国の国民性に深くかかわっています。さらに……。

「日本語は多くの単語を自動詞化できます。例えば、子どもが花びんを壊したときに、『花びんが壊れちゃった』と言い訳しますよね。自分が壊したにもかかわらず、花びんが勝手に壊れてしまったかのように表現する。日本語は行為をする主体を言わないことで責任の所在をあやふやにしているんです。また、『出発の日が決まった』や『家が建った』などは英語では自動詞で言えません。こういう言い方に日本語はすごく優れています」

英語を中心に、世界では主語をしっかりと立てる言語のほうが主流。反対に、日本語は主語がなくてもコミュニケーションが成立する文化を発達させてきたのです。これが日本人が海外、特にアメリカなど英語圏の国々に比べて集団主義的な傾向を持つ理由のひとつとなっています。

しかし、日本人は必ずしも集団主義的な人ばかりではありません。「内向性=集団主義」ではなく、むしろ、日本人のなかでも「集団に馴染めない人」を「内向的」と呼んでいるのではないでしょうか。

「内向的な人をコミュニケーション論的に捉えると、物事を俯瞰して観察するのが得意な人だといえます。一歩引いた目線で場を観察し、よく考えてから発言する。しばしばそれが『シャイ』だとか『引っ込み思案』だとか指摘されますが、決してこれは欠点とは言い切れません。

それよりも、実はこういう内向的な人たちは、単に日本語のコミュニケーションが合っていないだけで、英語的なコミュニケーションのほうがフィットしている可能性すらあるのです」

■内向的な人は英語圏の文化と相性が良い?

それはどういうことか。話は再び日本語と英語の比較に戻ります。

「基本的に、日本語は物事を俯瞰して表現しません。『富士山が見える』というとき、これは『私の眼に富士山が飛び込んでくる』という状況を表しています。主語を曖昧にしているので、文章の中に『観察する私』が溶けこんでしまっているんですね。

しかし、同じように英語で『I see Mt.Fuji』と話すとき、『観察する私(I)』は『この文章を発言している私』と切り離され、『Mt.Fuji』と同じ土俵に立っています。自分自身も切り離して、すべてを俯瞰して表現するのが英語であり、主語を明確にする言語なのです」

こうした英語の持つ“すべてを俯瞰して表現する”性質は、“一歩引いて観察する”内向性と共通するところがあります。

「実際、内向的な人が英語で話し始めた瞬間に性格がガラッと変わって、お喋り好きな人になる例はたくさんあります。こういう人たちは、日本語が自分のコミュニケーション・タイプと合っていなかっただけで、英語のほうが本来の自分を表現しやすい可能性もありますね」

さらに、内向的な人のほうが英語圏の文化に馴染みやすい可能性は、会議におけるコミュニケーションの比較からも見えてくるといいます。

「日本人は普段はあまり喋らないのに、会議のような場所で意見を表明しないと、『使えないやつ』というレッテルが貼られてしまいます。自己主張が強いアメリカでも当然こうした傾向があるかと思いきや、意外にそんなことはないのです」

■内向的だからこそ、発言に重みが出る

日本でもアメリカでも、会議でほとんど喋らない人もいます。しかしアメリカでは、それは「意見がない」と受け取られはせず、「沈黙も意思表示」だと解釈されることがあるそうです。

「その例として、こんな笑い話があります。ビジネスでアメリカ人と日本人が交渉をしていました。アメリカ人が『この金額でOKですか』と提示したら、日本人は考える時には、アメリカ人と違って、いちいち『Let me think.(考えさせて)』のように言いませんから、とくに返事をせずに考えていました。するとアメリカ人は、この沈黙を『この金額では不満があるのか』という否定と捉えて、自ら値下げした金額を提示して来たのです。

しかし実は、日本人は本当は提示された金額で成立させるつもりでした。『沈黙は否定』と捉えるアメリカの文化のおかげで、思わぬ得をしたわけです。向こうは、すべての行動に意味があると解釈される文化なので、沈黙もひとつの『言語行為』だと見られるのです。

アメリカでは『喋りたくやつは喋らなくていい、それも彼の意見なんだ』と周囲が解釈します。しかし、日本では集団主義的な判断から、『(積極的に意見を表明する前提で集まったのに)空気を読まないやつ』とネガティブに評価されがちなのです」

そうした風土の違いが、内向的な人が日本で“誤解”されやすい原因のひとつになっています。

「日本でも“引っ込み思案”だと批難される内向的な人のなかには、『自分はこの問題を真剣に考えているのであって、何も意見がないわけじゃない』という言い分があるでしょう。『そんなに急かさないでくれよ』と。

しばしば内向的な人たちは、『グローバル化するビジネスの現場では、積極的に自己主張していかないと通用しない』と言われます。しかし、そんなコミュニケーションは決して国際的なスタンダードではない。内向的なスタンスだからこそ出せる存在感もあるのです」

日本人は外国人と対峙する際に、「喋らきゃ、喋らなきゃ」と焦ってしまいがちです。しかし堀田さんは研究者の国際会議などに多数参加した経験から、こう語ります。

「中身がないことをたくさん話す外国人より、日本の研究者がじっと考え抜いて発したひと言が、国を超えて人を動かしたりすることが珍しくありません。普段は黙ってよく考え、ここぞというときにしっかりした意見を言う。そんな内向的なコミュニケーションは、世界に通用する力だと思います」

内向的な人が国際社会で、外国人と同じテンションで張り合ったり、無理に外交的な性格になる必要はありません。内向的だからこそ、“ここぞのひと言”に劇的な効果をもたらすことだってできるのです。

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『なぜ、あの人の頼みは聞いてしまうのか?――仕事に使える言語学』

<プロフィール>
堀田秀吾(ほった・しゅうご)
明治大学法学部教授。法言語学者。シカゴ大学言語学部博士課程修了。学内では研究者らしからぬ熱血指導が支持され、「明治一受けたい授業」に選出されるなど、学生からの信頼も厚い。言語学、法学、社会心理学などの様々な学問分野を融合した研究法に定評があり、コミュニケーション心理の研究を行う。著書に『飲みの席には這ってでも行け!』『なぜか好かれる人がやっている絶妙な存在感の出し方』『特定の人としかうまく付き合えないのは、結局、あなたの心が冷めているからだ』(共著)などがある。

<クレジット>
取材・文/小山田裕哉
撮影/小島マサヒロ