ミヤザキケンスケさん(画家・壁画アーティスト) (撮影/横田達也)

■東北の被災地で絵を描いてみて

──ミヤザキさんの世界の紛争地や社会問題を抱える地域の学校などの壁に、スーパーハッピーな絵を描くプロジェクト<Over The Wall(壁を超えて)>は、2006年、ケニアのスラム街から始まりました。その後も、2010年と2014年にもケニアで活動されていますが、これは同じ場所ですか。

ミヤザキ:はい、同じ学校です。2014年にこの学校が火事になり、プロジェクトは2015年に延期するというアクシデントもありましたが、その後は、東ティモール(2016年)、ウクライナ(2017年)、エクアドル(2018年)と続いています。

前回お話ししたように、僕は2006年、アート活動をしていたロンドンから一人でケニアに行って、学校の壁に試行錯誤しながら絵を完成させたことで、手応えを感じました。「こういう形なら海外を拠点にしなくても、日本にいながら世界で絵を描いていけるな」と思い帰国しましたが、そこから3年間、テレビの仕事をいただくことになり……。

毎週、スタジオにゲストが来て、僕がライブペイントをするという仕事で、非常にありがたかったんですが、収録があるので1か月は休めません。それで番組が終わった2010年に、もう1回ケニアに行って、壁画プロジェクトを再スタート。その翌年、東日本大震災が起こりました。

「日本が大変なときに、海外に行くのは違うだろう」という思いから、東北での支援活動を始めました。これも3年ぐらい続けて、落ち着いてきたので、2014年、ケニアに還って壁画プロジェクトを再びスタートさせた次第です。

(撮影/横田達也)

──東北での支援はどういうことをなさったんですか。

ミヤザキ:絵に関しては、子どもたちのワークショップのほか、岩手の大船渡市にある理容店の入った建物全体に、スーパーハッピーな絵を描きました。建物が雨風にさらされると劣化するので、毎年、手直しに行って……。

あれほどの災害であっても、5、6年経つと、通ってくるボランティアの数は少なくなります。そういう中で続けて通ううちに、最初は「一体、何しに来ているのか」と思って見ていた人たちも、違った目で僕の活動を見てくださるようになっていった気がします。

──海外で壁画を描くのとは違いましたか?

ミヤザキ:そうですね。たとえば、同じように心を込めて、ケニアのスラム街に絵を描いたとしても、日本からは遠いですよね? 東北はとても近いですし、同じ日本人なので、自分の絵がどういうふうに受け入れられていったか、すごくよく見ることができたんです。それがとても意味がありました。

もちろん震災直後は先のことは見えませんから、その時々の思いだけでやっていたんですけれどね。「壁画を描きませんか」と僕に話が来た時も、「大きな悲しみが起こった土地で、すぐにスーパーハッピーな絵を描いてよいものだろうか」と悩んだり考えたりもしたんです。でも、「絵を見て、すごく元気になった」「復興の励みになった」という言葉をいただいたり、感謝されたりすることもありました。

振り返ってみると、この理容店の壁画プロジェクトがあったからこそ集まったり、繋(つな)がったりした人たちもたくさんいましたし、一連のことで、僕も自信を持つことができました。

(撮影/横田達也)

──建物全体に描くとなると、画材の量もすごいでしょうから、かなりお金が要るでしょうね。

ミヤザキ:確かに費用もかかります。大地震の後、「東北のことをやろう」と声を掛けてくれたのは、NPOをしていた友人でした。震災の1週間後から彼がトラックを借りて、「東京から物販を運ぶから手伝ってくれ」と。

震災から1か月経った頃、「避難所などにいる子どもたちが春休みなので、絵を描くプロジェクトをやらないか」と、彼がワークショップをする場所を見つけてくれたんです。そうやって、彼のネットワークや行動力に乗っかる形で活動していたんですが、月1回、東北に通ううちに、「いいことをしたい」という気持ちと「自分はなんでやってるんだろう」という気持ちが芽生えてきて……自分の中でのモチベーションがあやふやになってきたんです。

「彼が勧めるからやっているのか」とか……そう思っているときに、海辺に建つ理容店の建物に絵を描く話が僕のところに来ました。

お金の調達は彼が担当していたので、二人で話し合いました。彼は「このプロジェクトは僕はやらない。やりたいなら、自分の力でやってみたらどう?」とはっきり言ってくれたので、僕もすごく考えて……。お金と時間をすごくかけてもやりたいのか、自問自答した末、やっぱりやろうと決心して。自分で全部絵の具を買い揃え、自分の車で現地に絵を描きに行きました。

──ボランティアをしていると、さまざまな難しい局面にぶつかりますね。

初めての壁画プロジェクトは2006年、ケニアで始めた。その後、2010、2015年の計3回ケニアで活動したが、3度目のプロジェクトを予定していた2014年には、この学校が火事になるという不運にも見舞われた(撮影/小野慶輔)

ミヤザキ:ただ、あそこで意思確認したことで、その後、その友達との関係も好転しました。人助けをするにしても、そこに自分の気持ちがないと続けてはいけません。「相手が喜ぶから」というだけではやっぱり十分ではなくて、「自分がこれがいいと思っているからやってるんだ」という強い気持ちが必要なんだと身をもってわかりました。

■自分に足りないところは行動力で補ってきた

──ミヤザキさんが一人で、ケニアで始めた壁画プロジェクトも、だんだん注目を集めるようになり、ここ数年は、相手国と日本との周年事業に組み込まれたり、国連の難民に関する機関(UNHCR)との連携も生まれてきたりしています。

ミヤザキ:はい、ウクライナでのプロジェクトは、国内の避難民を多く受け入れている町で、学校の壁にウクライナの民話『大きな手ぶくろ』をテーマにした絵を描きました。このとき、現地の子どもたちの他、国連UNHCRがシリアなど他の地域の難民の子どもたちを参加させてくれて、活動に広がりができましたね。

ケニアの子どもたちが見たことのない外国の有名な建物や動物や鳥、民族衣装を着た人々を壁いっぱいに描く(撮影/小野慶輔)

──プロジェクトが大きくなるほど、プロジェクトチームを束ねるリーダーとしての仕事が多くなりませんか?

ミヤザキ:確かに(笑)。絵を描いている時間よりも、企画書を書いている時間の方が長くなることもあります。

──昔からリーダー的な性質をお持ちでしたか。

ミヤザキ:そういう役をしたいタイプだったと思いますけれども、そういう機会を与えられていたかと言うとそうではなく……兄弟の中でも一番下でしたし。

中学3年生の時に自分たちで企画を立てて実行して、それがすごく楽しかったという経験がありました。その記憶は自分の中に残っていましたが、高校は芸術科のある学校に進学したので、周囲は女子ばかりで、リーダーシップを発揮する機会も特になく……それが筑波大学に入ってからはまた逆になりと、リーダーシップが発揮できていた時間と、できていなかった時間が、交互に現れていた感じです。

僕が通っていた頃の筑波大学はまだ駅もなかったし、遊ぶところもなかったので、何かやろうと思ったら、自分たちでイベントを作るしかありません。年間行事も自分たちで勝手に作って、そこで遊んでいました。

──卒業後はどうしようと思っていらしたんですか?

ミヤザキ:一応、アーティストになろうとは決めていましたが、結局、筑波大学の大学院に行ったんです。もともと、美大にいるようないわゆる“ぶっ飛んだ人たち”に比べれば、僕は普通。芸術家として才能に恵まれているほうではないぶん、行動力で現状を打開しようというところがありました。

大学を卒業したら、そのまま海外に出るとか、本当は目標に向かってストレートに行くことをしたかったはずなのに、ちょっとビビったんですよね(笑)。「自分から学生という身分を取り上げたら、何にも残らないんじゃないか」と不安に駆られて、将来を決めなければいけない状況を先延ばしにしたい、そういう気持ちで大学院に行ってしまった。

外国の大学院に行くとか、日本でも別の大学院に行くとか、いろんな選択肢があったはずなのに、自分はステイを選んだんです。そのことを埋めるために、ものすごく走り回りました。大学院に行ってすぐ「一番好きなアーティストに会ってみよう」と思い、NYで活躍されている篠原有司男(うしお)さんに会いに行きました。

僕らの夢の壁画が完成!(撮影/小野慶輔)

──居てもたってもいられず……。

ミヤザキ:そんな感じでしたね。大学の教授が橋渡しして下さり、篠原さんに会うことができました。「憧れの人に会って、今の自分を見てもらおう」と意気込んでNYに行ったんですが、あちらは頭をモヒカンにして、ボクシンググローブに絵の具をつけて、キャンバスに絵を描いているような方ですから、超ファンキーなんです(笑)。会ったその日にいきなり「おい、飲みに行こうぜ」と言われて、それから1か月間、アシスタントみたいな感じで、アトリエに置いていただきました。

向こうにしてみれば、誰でも何でもよかったのかもしれませんけど、僕の絵を見て、「お前、いいよいいよ、そういうのいいよ」と褒(ほ)めてくれました。こちらが何かしようとしていることを評価してくれるというか……。

──いいタイミングでいい方に会いましたね。

ミヤザキ:ええ、すごく若々しくて、何十年もアートの第一線で活躍している方なのに、二十歳そこそこの学生の絵にまじめに嫉妬するんですよ。「お前、こんなん描かれたら、俺困るわ~」とかポンポン言われます。「もう真似しちゃうよ、これ。俺、パクっちゃおうかな~」って、とにかくすべてが楽しくて面白いんです(笑)。

「本物のアーティストはこんな風にして一生懸命、生きているんだ。僕も大学の先生にいろいろ言われたぐらいで、落ち込んでる場合じゃないよな。そんな話じゃないんだ」ということは、当時の僕でも十分わかりました。

何事によらず、その時代に自分をたぎらせて生きているということが、僕は好きみたいです。

──それでミヤザキさんは、世界の紛争地の壁に絵を描いて、自分をたぎらせることにしたわけですね(笑)。

ミヤザキ:まあ、そういうことになりますね(笑)。

■子どもを持って、子どもと親の気持ちがわかるように

──お子さんはおいくつですか?

ミヤザキ:上が3歳で、下が1歳です

──ミヤザキさんの壁画プロジェクトの眼目のひとつが、現地の子どもたちと一緒に絵を描くことですが、お子さんを持たれてから、現地の子どもたちとの距離感は変わりましたか?

壁画の前でポーズをとるかっこいい女の子。(撮影/小野慶輔)

ミヤザキ:だいぶ変わりましたねえ。それまでは、自分が子どもを持つような生活をするということすら想像していませんでした。最後にケニアに行った2015年春、妻が妊娠していまして。その時は、男3人でプロジェクトに出掛けて行ったんですが、僕以外の2人は子どもを持っていて、ケニアの子どもたちをまるでわが子のように扱うんです。正直なところ、僕にはその気持ちがまだわかりませんでした。

それが次の年に東ティモールに壁画を描きに行った時には、自分に子どもができたことですこし変わってきて……自分の子どもが大きくなるにつれ、子どもの気持ちと親の気持ちの両方がだんだんわかってきました。

「社会にとって子どもは大事です」となぜ、世の中が言うのか、そういうことすら僕はあんまり気に掛けていなかったんです(笑)。自分が親になる前は、「子どもが喜ぶから」と思って、子どものためのワークショップをしていましたが、いまは、子どもをよりよく育てることが世の中のためになるということ、自分がいなくなった後、未来を託す人たちがいまの子どもたちなんだということが、いちいちその通りだと納得します。

ミヤザキさんのスーパーハッピーな絵に負けない、少年少女たちの熱気、喜びが伝わってくる。(撮影/小野慶輔)

──画風も変わったりしましたか。

ミヤザキ:絵はそれほど劇的には変わっていないと思いますが、ワークショップなどでの子どもへの接し方は変わりました。

自分の子どもが喋れるようになって、1年あまり経ちますが、ワークショップの最中に子どもが僕のほうに寄ってきますよね? わざわざ子どもがそれをするというのは、とても興味があるからなんですよ。

そこでもし僕が邪慳(じゃけん)にしたりしたら、子どもはどんなに悲しい気持ちになるか、ひょっとしたら絵を描くこと自体、嫌いになるかもしれない。また、こちらに寄ってこない子どもでも、ちゃんと意識していて「自分の絵を見てほしいな」とサインを送っているのが、わかるようになりました。子どものそういう感性は大事にしてあげたいと思いますね。

──今年のエクアドルでのプロジェクトには、花火を見たことがない現地の子どもたちのために、日本の子どもたちが描いた花火の絵を持って行くと伺いましたが。

ミヤザキ:そうなんです。宮浦歩美さんという方がなさっている花火プロジェクトで、エクアドルで日本の花火を上げる予定だったのですが、火器の持ち込みについての規制があって、今回は断念されました。その代わりに僕らが花火の絵を持っていくという形にしました。

僕は「アートが好きだ」ということで、ずっとそれだけをやってきたんですけれど、アートを通じて社会と接点ができ、子どもたちとのワークショップや子どもの教育について話をする機会を頂いたり、自分が全く予期しなかったところで評価していただいているのは、すごくありがたいです。

ミヤザキさんの育った佐賀市では、毎年11月に国際バルーンフェスティバルが開催される。パッケージ会社の「株式会社サガシキ」のバルーンにもミヤザキさんの絵が!(写真提供/サガシキ)

──ミヤザキさんの壁画プロジェクトへの協賛企業も増えていますね。

ミヤザキ:はい、おかげさまで。特に、初期の頃から支援していただいている日本の大手文具メーカーのクレパスと絵の具は、国内外の子どもたちのワークショップで使っています。<Over The Wall>の壁画プロジェクトとは別にも、自分のライフワークとして、ワークショップに取り組んでいますが、これは年間かなりの回数、実施しています、ここでも子どもたちが僕のプロジェクトの重要な存在になっています。

■スーパーハッピーの芽を撒き続ける意義

──ミヤザキさんが絵を描いている地域は、必ずしも安全が確保されているわけではなく、時に、危険をともなう可能性もあると思いますが、なぜこのプロジェクトを続けるのですか?

ミヤザキ:ちょっと大風呂敷的な表現になりますが、やっぱり「世界平和」とか「人類みな兄弟」という言葉が思い浮かびます。最初にケニアに行った時、僕は日本の状況と一番遠いところにある場所に行ってみたい、と思いました。アフリカ最大のスラム街にいる人たちは、自分たちとは全く違う人達で、自分とは通じ合うところが一つもないのではないかと思っていましたが、実際に一つのものを制作しながら一緒に暮らしてみると、仲良くなれたりするわけです。

そういう体験を重ねていると、もしかしたら、どんな宗教の人でもどんな難しい状況にある人でも、一緒にご飯を食べて、共通の目的を持つことができれば、理解できるものがあるのではないか? それを確かめに行きたいから、壁画プロジェクトもその都度、違う大陸を選んでいますし、いろいろなシチュエーションの人たちと制作したいと考えています。

今年はエクアドルでのプロジェクトの一つとして、犯罪を犯した女性たちが自分の幼い子どもたちと暮らしている刑務所の壁に絵を描きます。そういう場所で絵を描いた経験がありませんので、うまくいくかはわかりませんが、貧困ゆえに、女性が一人で生きていこうとすると犯罪に手を染めてしまうケースが数多くあると聞いています。

『ダイヤモンド』(2013年作)(写真提供/サガシキ)

──どういう絵を描く予定ですか?

ミヤザキ:そこに収容されている女性に一人一輪ずつ花の絵を描いてもらおうと思っています。みんな違う種類の花、でもみんな明るいんです。これまでは子どもたちと絵を描いてきましたが、女性たちと刑務所という施設の中で絵を描いて、果たして心が通わせられるのかどうかわかりませんけれども、あまり身構えずに入っていこうと思っています。

今年は、日本とエクアドルの外交関係樹立100周年にあたり、周年事業の一つに僕たちの壁画プロジェクトも入れていただきました。野口英世博士がエクアドルに入ったのも、ちょうど100年前ぐらいで、このあたりからエクアドルと日本の外交も始まっているのですね。

在日エクアドル大使館が非常に僕らをサポートして下さり、大使のご自宅にまで僕らをお招きいただいて、「100周年という記念の年に、日本とエクアドル両国のために良い事をしたい」という言葉をいただきました。エクアドルは、パナマ帽とガラパゴス島の珍しい種類の鳥と田辺農園のバナナが主たる産業の比較的小さな国ですが、だからこそ、僕らの壁画を描くプロジェクトに注目してもらって、協力して頂けている部分もあると嬉しく思います。

『水と土と太陽がつまってる!』(2008年作)(写真提供/サガシキ)

──大がかりでないところが、ミヤザキさんの壁画プロジェクトには合っているのかもしれませんね。

ミヤザキ:そうですね。限られた時間内でのプロジェクトですけれども、エクアドルでも精一杯、現地の人たちと絵を描いてきたいですね。

貧困、紛争、犯罪など、一見、希望がどこにも見当たらないような、ハッピーの芽が出る余地などないように思える場所でも、みんなが何とかしようと同じ心を持って、一つのことに取り組めば、ハッピーの芽を撒くことができる。スーパーハッピーな大きな花を咲かせることもできる。そう信じて、一歩ずつ確実に進んでいきたいと思います。

ミヤザキケンスケさん(撮影/蒲原信也)

<プロフィール>
1978年、佐賀県生まれ。筑波大学修士課程修了後、ロンドンに渡り、アート制作を開始。2006年に始めたケニア最大のスラムの学校の壁に子ども達と絵を描くプロジェクトが注目を集め、世界中に壁画を残す「Over the Wall」を主宰するように。2016年の東ティモール、2017年のウクライナに続き、今年8月、エクアドルの女性刑務所などでプロジェクトを実施

OVER THE WALL ~世界壁画プロジェクト~
ミヤザキケンスケ公式ウェブサイト

<ミヤザキケンスケギャラリー>
株式会社サガシキ 〒849-0921佐賀市高木瀬西6-3-2
電話 0952-30-8510(見学は要予約)

ギャラリー内部。(写真提供/サガシキ)

<クレジット>
取材・文/樋渡優子

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