アフガニスタンで勤務中。南部のラシカルガという街の刑務所で行った物資配達の一枚(後ろ向きなのが小口さん)

世界の紛争地域等で支援活動を行う人たちは、なにも医師や看護師といった職業の方ばかりではありません。必要な物資を調達し、現地の人に届けるロジスティシャンという重要な役割を担っている人もいます。今回は、そのロジスティシャンとして、国際人道支援の最前線で10年間も活躍し続けている小口隼人さんに、オンラインでインタビューをすることが叶いました。

■ロジスティシャンという仕事

──小口さんはいま、ベルギーにいらっしゃるのですね?

小口:そうです。赤十字国際委員会(ICRC)で働いていて、直近ではアフガニスタンでのミッションに就いていました。現在は休暇中です。私事ながら、最初の子どもが今年9月末に生まれ、寝不足ながらもいつになく長い休暇を過ごしています。

──それはおめでとうございます! 小口さんは国境なき医師団と赤十字国際委員会、2つの世界的な人道支援団体で、紛争地や被災地、また長期的な支援を必要とする国で働いておられます。文字通り、前線に立つ仕事ですが、ロジスティシャンとはどういうお仕事ですか。

小口:一言でいうと、国際人道支援の世界のロジスティシャンとは、災害地や紛争地で被害を受けて、支援物資を必要とする人たちのところへ物資を届けるために働く人のことで、できるだけ迅速に、物資を届けるのが仕事です。

疾病者や負傷者の治療が即時に行える特殊なテントを輸送・設営したり、避難民が最低限の居住環境──僕らの世界ではこれを“シェルター”と呼びますが、それを建てるために必要なプラスティックシートを配布したり、水や食料や医薬品を届けたりします。そのほか必要な物資を調達して届けたり、時には、スタッフ全員分の食事や睡眠場所を現地で用意することもあります。

──何でも屋さんみたいですね!

小口隼人さん(赤十字国際委員会・国境なき医師団ロジスティシャン)
[写真・岩田慎一]

小口:はい、調達屋・運び屋、ときには何でも屋です(笑)。ですが、本当に一筋縄ではいかないんです。

たとえば物資のニーズに対して、ロジスティシャンは、物資をどこで買って調達し、どうやって目的地まで運び、物資を受け取る人たちの手に渡すか、それまでどこに保管するかといった物資の調達・管理・輸送のすべてを行います。順調に調達できた物資も、最終目的地の数キロ前が泥沼で、陸路の輸送が不可能といった事態は、インフラが劣悪で雨期のある国や紛争地ではよくある話です。

物資の手当てだけでなく、必要な時には建物を建てたり、避難民キャンプに届けるために水のネットワークを作ったり、発電機や車の整備・管理など、これらすべての活動に必要なスタッフをマネジメントしたり、研修を行ったり……。その時々で求められる役割は変わってくるんです。

──物資の乏しい場所では国境を越えて、調達したり運び入れたりしないといけないのでしょうね。

小口:そうですね。その国で手に入らないものですと、海外から買ってきます。外国で購入するとさまざまな輸送手段がありますので、それをどう適切に選ぶか、どれぐらいお金がかかるのかを考える。また、通関での手続きに必要な書類も揃えます。

その国内で調達できるものであれば、どのサプライヤーを相手にすれば一番安全に、リーズナブルに物資が手に入るのかを考えればいいわけですが、たとえばシリアやイラクの場合、物資を買ってみたら、その背後には実際に武器を持って戦っている反政府勢力がいた、ということもあり得るわけです。

そういう事態は、僕らの中立な活動を支えるために寄付をしてくださっている方達のためにもあってはならないことですから、ちゃんとチェックをする。それも大事な仕事になります。

■直近のミッションで7人の同僚を失う

──人命に関わる判断をしなければならない局面もあるでしょうね。危険な目に遭われたことは?

小口:幸い僕自身はそういう場面に遭遇したことはありませんが、中東のイエメンでのミッションでは、担当していた病院が爆撃を受けて医師や入院中の子どもを含め、負傷者が出ました。

直近のアフガニスタンでの勤務中には7人の同僚を失ってしまい、大きなショックを受けました。その一人とは同じ宿舎に一緒に住んでいて、生活を共にしていたので信じられないことでした。家族や友人にはなかなか言えない場面を経験したこともありますが、僕のできる範囲で、できる限りのことをしようと常に心がけています。

国境なき医師団(MSF)で最初に勤務したのがスーダン。27歳のとき。写真は南スーダンにて

──反政府勢力のいる地域などで活動する際には、相手を刺激せずに人道支援を続ける必要もあるでしょう。難しいお仕事だと思います。

小口:何らかの問題がある場所で仕事をしていますので。状況が難しいときに判断しなければならない仕事なのは確かです。

たとえば、反政府勢力の負傷した兵士を、戦闘地域から自分たちが活動している病院に搬送する際に、政府側のチェックポイントを通れば、当然、引き渡しを要求してきます。しかし、「負傷した兵士は患者として扱わなければならない」と政府側に説明して、病院まで搬送して治療を行うなど、人道支援団体として常に、「独立・中立・公平な立場」から、一つひとつの場面に対応していかなくてはなりません。

赤十字国際委員会や国境なき医師団は思想や宗教、出自などを一切問わず公平に人道支援を行うことがモットーです。車の運転手など、ロジスティクスのスタッフ一人ひとりに至るまで、この原理・原則をしっかりと理解して、臨機応変に対応する必要があります。

■多国籍だからこそ、ガイドラインが大事になる

──普通でない状況下で、ベストを尽くし、判断を下さなければならない……大変なお仕事ですね。小口さんはこれまでに国境なき医師団と赤十字国際委員会、両方の組織でロジスティシャンをされていますが、その時々で契約を交わして働くのですか。

小口:はい、最近は1年契約、3年契約を結ぶスタイルも出てきているようですが、僕の場合はロジスティシャンを始めた当時から一貫して、各団体からオファーをもらってミッションを行う。ミッションの途中で、規定の休暇をとり、一つのミッションが終わったら、契約を終えて、日本国内を旅行したり、思い切って世界一周旅行をしたり、はたまた何もしないでただ食べて・呑んで・寝るという生活をして、休暇をとった後、また次のミッションの契約を結ぶという形をとっています。

──休暇中も最先端の技術を学ぶために、ヨーロッパでの研修に出たりされるそうですね。

2007年、スーダンのダルフールにて。国境なき医師団(MSF)の同僚と一緒に

小口:特別な装備がされた車両、緊急時にする特殊なテント、新しい衛星電話や無線機器、オンライン化され始めた物資調達のソフトウェアなど新しいものが次々出てきています。このような技術面での刷新についていくことに努めています。また、そういった技術面での知識を得ることのほかにも、国際人道支援の場における考え方、判断の仕方などについても研修を受けます。

ある地域に避難民が避難してきたと想定して、避難民の数、彼らのニーズの把握の仕方、疫病が流行っているのか、およその数にしてどれくらいの感染している避難民がいるのか、それらの調査をもとに、どのような人道支援プログラムを提供するのかを学ぶ研修に参加させてもらったこともあります。
このような研修では、色々な経験を積んで来た他の同僚とも再会、もしくは新しい出会いもあり、とてもいい刺激になりますし、多くのことを話し合い、学ぶことができます。

──学びの中で、特に大事なことは何ですか?

小口:ミッションに従事するスタッフは多国籍ですし、現地スタッフや関係者を含めて、人道支援の現場は、たくさんの人間と仕事のやり方や価値観が交錯する場所です。
ですので、基本的な考え方のガイドラインをきちっとしておかないといけないんです。ガイドライン、団体の理念やプロジェクトの目標をもとに、どのように私自身と私がマネジメントするチームの特徴を最大限に引き出せるかということを念頭に、みなが試行錯誤しながら仕事しています。

■忘れられない上司の言葉、「ミスを恐るな!」

──国境なき医師団、赤十字国際委員会(ICRC)の両方からオファーを受けるとは、小口さんは腕の良いロジスティシャンなんですね。

小口:ハハハ、そうなんでしょうか(笑)。つまらないミスもまだありますが、そういう風に思いたいですけれどね。ただ、ミスを恐れずに仕事するというのは大切だと思ってます。ミスした時も、「どうしてミスをしてしまったのか」ということをきちんと理解して、何を改善しなければいけないのかということを考え、自分なりのリサーチの後に最良だと思われる対策をトライする、という繰り返しです。
この仕事を始めて間もない頃に出会ったボスの助言は、いまでも明確に覚えています、「ミスを恐れるな!」でした。短い助言だったおかげで、覚えていられるのかもしれませんが(笑)。

──それはご自身がいくつも難しい局面を乗り越えられた方ならではのアドバイスですね。小口さんが最初にこの仕事に就かれたのは、何歳のときですか。

2009年コンゴ民主共和国にて

小口:国境なき医師団と赤十字国際委員、それ以前にも別のデンマークの団体から、アフリカのボツワナという国に派遣されたことはありましたが、国境なき医師団で、ロジスティシャンとして初めて働いたのは27歳のとき、赴任地はスーダンのダルフールという地域でした。

ダルフールの次がコンゴ民主共和国、その次が、大地震が起きた際のハイチ、独立直前の南スーダン、スリランカ、マラウイ、内戦のシリア、パキスタン、その後が、空爆が始まったイエメン……ここまでが国境なき医師団で働いた国です。その後、赤十字国際委員会に移って、2018年1月まで長期の混乱が続くアフガニスタンで働きました。

時間でいえば、国境なき医師団で8年。赤十字国際委員会に入って2年ちょっとですので、ちょうど10年を越したところですね。もっとも、この年数は休暇を含んでいますので、現場にいた正確な年数としては7年ちょっとだと思います。

■現地の人の考え方や歴史に即した人道支援を

──小口さんぐらい世界の紛争地・係争地で実際に仕事をして、その現実を肌で知る日本人は少ないと思うのですよ。

小口:いやいや、初めから専門家ではないので、いまでもわからないことばかりですが、最前線の現場で働くので現実に何が起こっているのかを肌で感じることができます。

最初のミッションはスーダンでしたが、新聞記事でダルフールで何が起こっているのかを知る程度でした。その時点では、新聞やテレビでしか見たことのない世界でした。派遣される直前にアルバイトをしていた草津の温泉ホテルの社員食堂で、たまたま読んだ新聞記事がダルフールのことだったことがあり、「大変なことが起きているな。こういうところで働くんだな。大丈夫かな」と漠然とした期待と不安を抱えていたので、ダルフールへの派遣が決まったときは「うわ、やっぱり! どうしよう!」と正直、思いましたが、トライしてみたい気持ちが勝り、派遣をお願いしました。

派遣されたダルフールではアフガニスタン人のボスと出会い、彼のあたたかい人間性や、彼の国の大変な状況を知るにつれて、「いつかはアフガニスタンに行ってみたい」と思っていたら、実際にアフガニスタンで働くことができた。この仕事を初めてから、ずっとこういう感じで現在に至っています。それは運命的というより、必然的な流れのように感じています。

2009年、コンゴ民主共和国でのミッションの一場面。

──ある意味、兵士が戦地と本国とを行き来するときのような、非常に特殊な生活のお仕事かと思いますが……。

小口:紛争地帯であっても、災害被災地であっても、そのような場所で仕事や生活を長く続けられるとはあまり思ってはいませんでしたが、今ではこういうライフスタイルに慣れましたし、とても充実した生活ができるので感謝しています。

──特にアフリカや中東地域でのお仕事に長く従事されていますが、たとえば、直近で行かれていたアフガニスタンの状況はどうですか。

小口:よくないですね……悪化の一途をたどっています。アメリカにもプランはあるのでしょうが、アフガニスタンは欧米ほどロジックや合理主義で動いている世界ではありませんので、合理主義に則ったやり方で進めようとしても、性急に過ぎるというか。
アフガニスタンの人たちも自分たちの歴史の中でずっと生きていますので、急に「ああしろ、こうしろ」と言われても、それはすぐにはできないという部分があると思いますし、彼らなりのやり方で変えていかなければ本当の変化は起こらないでしょう。

人道支援を行う場合には、現地の人たちの歴史や考え方、現実との向き合い方を理解して、その中での最善を尽くしていくことが必要不可欠になります。

2012年シリアミッション時に設営した病院

■大学時代、あてどない時期があったから、いまがある

──小口さんがどうして人道支援の世界に入られたのか、お聞きしたいのですが。たとえば、どんな少年時代を送られたんでしょう?

小口:僕は今年39歳になりましたが、僕らの世代って、結局「キャプテン翼」なんですよね(笑)。いまでも翼くんのオーバーヘッドキックをしながらドライブシュートを蹴れるようになるのが夢です(笑)。小学生時代は台風の風の強い日にシュート練習をするとボールが面白いようにカーブしてくれてうれしかったのをよく覚えています。

キャプテン翼を見て育って、サッカーにのめり込んで、小学校の時には(神奈川県)相模原市の選抜チームに選ばれ、中学校の時には神奈川県の選抜のチームに選ばれたりと、中学までは割とトントンと順調にいきましたが、高校で伸び悩みました。

同世代では小野伸二選手がいますけど、まったく桁が違うんですね。そういうレベル違いの選手たちを見ているうちに、プロになりたいという希望はあったけれども、プロになる覚悟がいまひとつなかったんでしょう。「プロ選手、目指してやろう!」という何かが足りなかった。それで結局、大学に行ったんですが、あの時期の自分のあてどのなさ、もどかしさがあったからこそ、いまがあると本当に思うんです。

あの時期はいろんな種類のアルバイトをしました。引っ越しバイトとか、定年間近の年齢のおじさん達とペアを組んで、大手銀行のATMコーナーの掃除をするとか、ホテルの配膳の仕事とか、サッカーの近くにいたくてJリーグの平塚ベルマーレのスタジアムの警備員もやりました。このときはサッカーの試合ばっかり見ていて叱られましたが(笑)。

──そこから、アメリカにいらっしゃるんですね?

ミッションの合間、コンクリート注入車を操縦させてもらっている(シリアにて)

小口:そうです。大学3年の時、専修大学から奨学金がもらえるというので、アメリカに留学をしました。「それで帰ってきたら大学4年でダブっちゃうからやめろ」と周囲には言われましたが、当時から就職活動とかにはあまり興味がなくて……。企業ごとにすごい量の書類を準備してまで就職活動することにとても疑問がありましたし、それをしても僕の能力が一番活きる仕事ができるとは思えなかったので、それを僕なりに探していました。

自分がこの先のことについてよく分からないなら、いま、自分のやりたいことをやろう、と思ってペンシルベニア州のサスクェハナ大学に行きました。社会学専攻だったので、日本でがんばってTOEFLの点数を取って行ったんですけれど、英語以前に日本の社会学の知識がないので授業についていけない(笑)。

必要に駆られて必死で勉強しました。あの時に英語力はかなり伸びたと思うので、必要に迫られて必死になることは必要だと思いますね。

──いまのロジスティシャンの仕事では、英語とフランス語の両方を話されますか。

小口:そうですね。フランス語は国境なき医師団に入ってからできるようになりました。コンゴ民主共和国に赴任する前にパリでフランス語の研修を受けましたが、これも一生懸命やるしかなかったというか、ロジスティシャンの仕事は自分のやりたいことをやっているわけで、やりたいことをやるからには、良い悪いは別にして結果がついてこないと自分も困るし、周りも困るでしょう? 特に、言葉の学習はあらかじめ完璧に準備をすることは不可能なので、できる準備はしてあとはその場その場で学んでいます。

──やらされている、といった受け身な気持ちでは続かないということですね。ところで小口さんは、サッカーはどこのポジションですか?

小口:僕は川口能活選手が大好きなゴールキーパーでした。彼は高校の時から、ボールへの反応の良さ、一対一の強さ、ハイボールへの守備範囲の広さはすでに神業で、いつも参考にさせてもらいました。Jリーグが始まったときの名ゴールキーパー、ディド・ハーフナーさんの写真付きのゴールキーパー指導本は学校の教科書よりも何度も読みました!

止めることが非常に難しいゴールの右上・左上隅に飛んでくるシュートを止めるのに躍起(やっき)になっていました。

小口隼人さん (2013〜2014年のパキスタン。会議の途中)

──なるほど。どんな球も自分が止めるという気持ちが、いまの人道支援のお仕事につながっているのでしょうか。

小口:たしかに仲間が向こう側で攻めているときに、たった一人で守っていますからね。でも、守りは最大の攻撃と言いますし(笑)。攻撃する時は守備のことを考え、守備の時は攻撃することを考える、というようにサッカーで学んだことは今の仕事でもとても活きています。

やはりチームワークあっての人道支援なので。個人の力、そして組織の力をアップさせる必要があります。というわけで、僕の仕事での組織論やトレーニング論はサッカーがベースなので、仕事のために(!)サッカーをよく観ています。今年のワールドカップは長期休暇中だったこともあり全試合観ました(笑)。日本の対ベルギー戦、いまでも悔しいです!

──今日はこのあたりでお終いにしましょうか。人道支援のさらに深いお話を次回、お聞きいたします。

(後編につづく)

<プロフィール>
小口隼人(おぐち・はやと)
1979年神奈川県生まれ。子どもの頃はサッカー少年、開業医の父に連れられて登山など戸外のアクティビティに親しむ。高校時代、サッカーのプロ選手になる夢をあきらめて、専修大学に進学。大学3年の時にアメリカの大学に留学。留学中に人道支援の世界に興味をもち、ロンドンの大学院で公衆衛生を学んだ後、国境なき医師団のロジスティシャンとして働き始める。2007年から2015年まで、スーダン、ハイチ、コンゴ民主共和国、マラウイ、スリランカ、シリアなどの人道支援の場で働く。その後、赤十字国際委員会(ICRC)に移り、ロジスティシャンとして2018年1月までアフガニスタンでのミッションに参加。国際人道支援の最前線で10年間活躍している。

<クレジット>
取材・文/樋渡優子

<関連リンク>
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●国境なき医師団(MSF)日本