永江耕治さん(株式会社エーピーコミュニケーションズ取締役副社長)

2018年10月に行われた第1回「がんアライ宣言・アワード」では、がんと就労の問題に対して優れた取り組みをする企業20社が表彰されました。その表彰式の壇上でスピーチをしたゴールド受賞企業、株式会社エーピーコミュニケーションズ(APC)の永江耕治さんは、8年前に精巣がんと診断された「がんサバイバー」。永江さんは現在、副社長という重職に就いていますが、この8年の間、仕事と私生活をどのように過ごしてきたのでしょうか。ご本人にインタビューしました。

■娘に生きる術を教えないまま死ぬわけにはいかない

──精巣がんが発覚した当時のことをお聞かせください。

永江耕治さん(以下永江):精巣がんであることを告げられたのは、2010年8月18日のことです。前の週に違和感があって病院で検査を受けていたのですが、がんの可能性は低いだろうと言われていたので、結果を聞いたときは「まさか」と思いました。できるだけ早く手術をしたほうがいいということで、その日のうちに手術をすることになりました。

──精巣がんであると診断されて、最初に考えたことは?

永江:まず、「妻と小さい娘を残して死ぬわけにはいかない」と思いました。娘は当時まだ3歳で、言葉を覚えたてという時期。自分はまだ父親として、彼女に生きる術を何も教えていない。もしも自分がこの世からいなくなったら、大事な成長の場面で娘をサポートしてあげられないので、そのことへの心配はありました。

──手術前にはどなたに連絡しましたか? その時のみなさんの反応は?

永江:妻は飛行機に乗っていたので、連絡が取れませんでした。それでも父、姉、弟とは連絡が取れました。ちょうど前の年の11月に、母をがんで亡くしていたので、家族にとってもその記憶が新しい中での出来事でした。仕事関係では、社長と、自分の仕事を引き継いでもらえそうな数名に連絡をしました。みんなの反応はどうだったかというと、あまりに突然の電話なので、気の利いた言葉をかけるというより「え!?」と驚くしかないという感じでした。

病院で告知を受けた後、私は一旦家に戻り、入院の支度をして、病院に向かいました。考えごとをする時間もないまま手術室に向かい、手術台で横になりました。目が覚めると手術は終わっていて、まだ意識が朦朧とする中、妻と父、姉、弟が心配そうにこちらを見ている様子が見えました。手術は成功しましたが、私のがんはステージでいうと2。がんが浸潤していた(部位から少しはみ出していた)ため、予防の目的で抗がん剤治療を2クール行い、それが10月末に終わりました。その後は12月まで自宅療養をして、翌年の1月に職場復帰しました。

──闘病中、どんなことが大変でしたか?

永江:手術は痛いだけなので、その時だけ我慢すれば耐えられます。頭も働くし、体も元気。でも抗がん剤治療中は、体はだるくて動かないし、何かを考えるだけでもしんどい。その時はただただ、「早く時間が過ぎ去ってほしい」と思っていました。抗がん剤治療の間だけは、知人のお見舞いもお断りして、家族にだけ来てもらっていたような状況です。

私の場合、3つの種類の抗がん剤を投与されていたので、一つの副作用が終わって楽になっても、時間差で別の薬の副作用が始まり、きつい状況が長い時間続きました。食事制限はなかったのですが、食欲がわかないので食べられない。においも受け付けられず、食事のにおいがしてくるだけで気持ち悪くなりました。食べることは生活の中でも大きな楽しみの一つなのに、抗がん剤治療中はそれすらも奪われてしまうのだな、と思いました。

──そんな中でも食べられたものはありますか?

永江:梨です。妻が持ってきてくれました。私は梨が好物というわけではないけれど、とてもおいしかった。その時の味は今でも鮮明に覚えています。

■娘と一緒にいる時間を持つことができて「病に感謝」

──闘病中、体調が良い時はどのように過ごされましたか?

永江:私は読書が好きなので、抗がん剤治療が始まるまでは、「入院中は本をたくさん読めるチャンスだ」と思っていました。でも副作用で気分が悪くなると、活字を読むのもしんどい。漫画なら読めるかなと思って、面白いと聞いていた『ワンピース』を大人買いして読んでいましたが、それすらもしんどい時は妻に借りてきてもらった娯楽映画のDVDを見ていました。

──2010年当時のツイッターでは、「病に感謝」とも綴られています。どういう心境からですか?

永江:自宅療養中は、育児休暇ともいえるような時間がもらえたからです。それまで私は、朝、娘を保育園に送っていくことはありましたが、迎えに行くことはほとんどありませんでした。それが、送り迎え両方できたというのは、よかったなと思います。保育園が休みの日は、娘と2人で一日過ごしていました。娘が生まれて以来、そんなに長く娘といることはなかったので、病に感謝しようという気持ちになったのです。

──その後、体調はいかがですか?

永江:今も3か月に一度、経過を観察するために検査をしていますが、幸い再発の兆候は見られません。今は運動はあまりしていませんが、それは単に運動不足というだけです(笑)。運動しようと思えばできます。後遺症というほどのものはありませんが、左の鼠径(そけい)部を切ったことで股関節は硬くなりました。左右のバランスも、手術前と比べて少しずれている感じはあります。

──病気の前後で、人生観やライフスタイルには変化がありましたか?

永江:病気になる前の私は、毎日仕事に追われるような生活で、休日も学校に通ってビジネスの最前線のものを取り入れようとがんばっていました。自分の市場価値を常に高めておかないといけないという危機感があったからです。そしてそれは、家族のためだとも思っていました。

しかし今思えば、自分は家族と正面から向き合っていませんでした。娘と公園で遊んでいる時も、何の疑問もなくスマホを取り出して仕事のメールを打っていた。でも病気になって自分の人生を振り返った時に、「自分は今を生きてこなかったな」と思ったんです。2歳の娘、3歳の娘というのはその時しかいないのに、自分は将来のためだと言って別のことをしている。

「いったい自分はどの時間を生きているんだ?」と思うようになってから、家族と一緒にいる時間を大事にするようになりました。そうは言いながらも、娘の前で仕事のメールを打つことは、今もたまにありますけどね(笑)。そういうことはだいぶ減ったように思います。私を支えてくれた妻に対しては、バレンタインと母の日に、花を贈るようになりました。平日の昼間に会社の近くまで来てもらって、一緒にランチをすることもありますよ。

(後編につづく)

<プロフィール>
永江耕治(ながえ・こうじ)
1973年神奈川県生まれ。青山学院大学卒業後、Web制作会社でエンジニアとして活躍し、2002年に株式会社エーピーコミュニケーションズに入社。エンジニア部門の責任者を歴任した後、2009年より人事部門に異動。業務の傍らNLPマスタープラクティショナー、MBA(中央大学大学院人的資源管理専攻)を取得。2018年、取締役副社長に就任。がんから復帰後は、NPOや企業などで、がんに関するさまざまな組織役職や講師として貢献。現在「がん医療と職場の架け橋」アドバイザー。
株式会社エーピーコミュニケーションズ
がん医療と職場の架け橋

<クレジット>
取材/ライフネットジャーナル オンライン 編集部
文/香川誠
撮影/村上悦子